2009/vol.14
ピックアッププレイヤー:レナチーニョ
「ゴールを決めた瞬間、スタジアムに足を運んでくれている人、テレビで応援してくれている人、僕のことを見てくれている人への感謝の気持ちで一杯になるんだ。それから、自分が好きなことをさせてもらっていることに対して、神に感謝をする。あれは僕の気持ちを表現するためのパフォーマンスなんだよ」
ゴールを決めた後、コーナーフラッグに走りながら右腕の前腕にキスをするパフォーマンスは、すっかりお馴染みになった。昨年の年末に入れたというタトゥー。その腕には「ジーザス・クライスト(イエス・キリスト)」とポルトガル語で刻まれている。「筋肉のない箇所だったから、いままでの人生で一番の痛みだったよ」とおどけて見せるが、その文字には、自分に関わっているすべての人々への深い感謝の意が込められている。
稀代のテクニシャン、海を渡る
「僕の生まれ故郷はサンパウロ州の中心地から少し離れた海岸沿いの島、サンビセンチという町。すごく温暖な気候で、過ごしやすいところだよ。でも、サンビセンチはサンパウロでもとくに貧しい地域で、みんな明日の生活が困難なほど苦しんでいるんだ。僕の家族も例外じゃなかった。ただ、僕にはサッカーという希望があった。プロのサッカー選手になることで、苦しい生活から抜け出すことができたんだ」
レナチーニョのルーツは、空き地やビーチ、そしてストリートだった。幼少時代の頃から、ひまさえあればボールを蹴っていたそうだ。とにかくボール遊びが大好きで、仲間たちと一緒にテクニックを競い合った。隣町サントスのフットサルチームでプレーするようになったのも、ごく自然の流れだったという。だが当時のレナチーニョは、11人のサッカーにはまったく興味を持っていなかった。日本人の感覚からすれば意外なことだが、レナチーニョがはじめてサッカースパイクを履いたのは16歳のときだった。
「フットサルは好きだったけど、若い頃はサッカーがあまり好きじゃなかったんだ。スパイクを履くのがどうも苦手でね。でも、せっかくサントスのジュベニール(下部組織)に誘われたんだし、こんなチャンスは二度とないと思った。プロのサッカー選手になれば、家族を養っていくこともできる。すぐにサッカーで生活していこうと決断したよ。フィールドが広くなったけど、それほど違和感はなかった。サッカーの基本を学びながら少しずつチームにフィットしていって、17歳の頃にプロ契約を勝ち取ることができた。そりゃもう、すごく嬉しかったよ。18歳のときにはトップチームで出場することもできたし、自分自身でも順調に成長していくことができたと思う」
本人は「それほどサッカーの才能があると思っていなかった」と話すが、フットサルから転向して間もないプレーヤーがU-18、U-19、U-20と年代別代表に選ばれているのだから、周囲からの期待は並外れたものだっただろう。プロの世界に足を踏み入れた当時のレナチーニョは、クラブよりもユース代表でプレーする機会の方が多かった。その世代の代表選手たちが、いまや世界各国のクラブで頭角を現しはじめている。「素材」という面から見れば、レナチーニョは世界規格のプレーヤーであるのは間違いない。
また、同じサントス出身でプレースタイルも似ていることから、レナチーニョは3歳年上のロビーニョ(サントス[ブラジル]〜レアル・マドリード[スペイン]〜マンチェスター・シティ[イングランド])と比較されることが多い。実際にレナチーニョが来日する際のふれこみは「ロビーニョ2世」だった。ボールをまたぎながらのフェイント、ペダラーダは、ロビーニョの代名詞だ。独特の間で相手を幻惑するレナチーニョのステップは、確かにドリブルキングと呼ばれるロビーニョのプレーと被って見える。2人はサントスでプレーする前からの知り合いで、公私ともに仲良くしていた間柄だそうだ。
「ロビーニョは出身地が近くで、年上だけど子供の頃からの知り合いだったんだ。もちろん一緒にボールを蹴って遊んでいたし、仲間たちと一緒にシュラスコをやったりと、近所つき合いをするような関係だった。彼からはサッカーのテクニックだけではなく、いろんなことを教えてもらった。日本でいえばジュニーニョのような存在だね。僕はまだ若い。先輩から学ぶことはたくさんあると思う」
サントスやユース代表で着実に成長を続けていたレナチーニョだが、ブラジルでも異彩を放つそのプレースタイルゆえに、監督によっては毛嫌いされることもあった。19歳の頃にはトップチームに絡むようになっていたが、翌シーズン監督が交替してからじょじょに出番が減少。ロビーニョのように多くのブラジル人プレーヤーたちが、よりよい環境や条件へとステップアップするために海外移籍を目指している。出場機会に恵まれないレナチーニョも、ブラジルから出ることを考えるようになった。
「僕自身も海外でプレーしたいという気持ちがあったし、実際にヨーロッパのクラブからオファーをもらった。でもサントスとの契約上の問題があって、約3ヶ月間ピッチでプレーすることができなかったんだ。ブランクがある状態でヨーロッパに渡ってプレーするのは、あまりにもプレッシャーが大きい。ブラジルに残ってチームを探すのか、それとも海外に出るのか。これから自分はどういった方向に進んでいけばいいんだろうと悩んでいた。そんなときに、フロンターレが僕にチャンスをくれたんだ」
紆余曲折の末、日本へ
ここで、レナチーニョを獲得する際のエピソードを紹介したい。レナチーニョが加入したのは2008年の8月だが、フロンターレの強化部は高畠監督(当時)の要望もあり、春の時点からブラジル人MFを探していた。庄子強化部長が当時の状況を振り返る。
「ブラジルでレナチーニョのプレーを観たのは去年の5月末ですね。そのときはFWをやっていましたけど、2列目でもプレーしていました。その前からレナチーニョのVTRを観ていて、この選手はいいなと。当時、補強の候補が3人いて、レナチーニョともう1人の選手、そしてヴィトールだったんですね。ヴィトールもそうでしたけど、レナチーニョも監督がエメルソン・レオンに代わってから試合に出られない状況でした。そこでタツル(向島スカウト)と一緒にブラジルでレナチーニョと食事をしながら日本の話をして、フロンターレに来ないかと誘い、本人も日本でプレーしたいと答えてくれました。でもその後、エメルソン・レオンが解任されて、次の監督がレナチーニョのことをよく知っている下部組織上がりの指導者になり、現時点ではレナチーニョは出せないという話になったんです。そこで彼の獲得は一度断念しました」
このような事情もありレナチーニョの獲得は一度見送られ、FW寄りのプレースタイルのレナチーニョではなく、MFのヴィトールがフロンターレに加入することになった。その後のヴィトールの活躍は周知のとおりだ。だが、強化部はジュニーニョの後継者という意味合いでFWも探しており、時期を置いて再びレナチーニョにアプローチ。ようやくクラブ側から移籍オーケーの許可を得ることができた。
「一度目のオファーから2ヶ月ぐらいたったときに向こうの状況が変わり、いまなら大丈夫だという話になりました。レナチーニョはボールを持ってからのスピードがあって、個人で局面を打開することができる。テクニックもあるし、シュートもうまい。まだ若くて成長過程だし、日本で実戦経験を積めばどんどん吸収していくんじゃないかという期待もあり、またブラジルに行って本人と話をしました。彼と会うのはもう二度目だったし、われわれが日本に帰る前に今度はレナチーニョの方から会いにきて、シャイな性格で言葉は少なかったですけど『日本でプレーしたい』とはっきりいってくれたんです。本人の熱意も十分伝わったし、これなら大丈夫だろうという判断でフロンターレにくることが決まりました」(庄子強化部長)
かくして2008年の途中からフロンターレでプレーすることが決まったレナチーニョだったが、1ゴール1アシストという華々しいデビューを飾ったヴィトールに対し、ブランクがある上に今回がはじめての国外でのプレーというレナチーニョは、まずコンディションを上げながらスタイルの違うJリーグに慣れることが先決だった。本人は否定するかもしれないが、加入して数ヶ月はチームメイトともあまりコミュニケーションをとらず、日本での生活に馴染めていないようにも見えた。
「やっぱりプレーできなかったブランクは大きかったと思う。日本にきてから2ヶ月ぐらいは、自分でイメージするプレーができなかったからね。日本でのプレー経験がある友達からJリーグのことは聞いていたけど、実際にプレーしてみて独特のものを感じた。リズムやスピードがブラジルとは違っていたし、他の国とは異質のサッカーをやっていると思う。ブラジルからヨーロッパに渡った選手でも、日本ではそう簡単に活躍することができないんじゃないかな」
だが、そういった問題は時がすべてを解決してくれた。じょじょにコンディションを上げて試合勘を取り戻したレナチーニョは途中出場で結果を残し、終盤戦はスターティングメンバーに名を連ねるようになった。もともとサッカーセンスに関しては一級品のプレーヤー。自分のリズムをつかみはじめてからはハイペースでゴール数を伸ばし、チーム内での信頼を勝ち得た。またマイペースながらサービス精神旺盛な一面も見せ、試合後に自分のチャントを歌うパフォーマンスを披露。サポーターのハートもつかみ、2008年シーズンを終えることになった。
成長過程のその先に──
そして2009年。
すっかりチームに溶け込んだレナチーニョは、ACLグループリーグ第1戦で今季初ゴールを記録。決勝点となったこのゴールは、本人いわく「おそらく人生初」というヘディングでのゴールだった。レナチーニョはフットサル出身者ならではのドリブルと足技を駆使したプレーだけではなく、日本で練習を重ねることによりトータルで優れたプレーヤーへと日々成長中だ。そのスケールの大きさは、海外の一流クラブからオファーが舞い込むほどのレベルに達している。
本来であればレナチーニョのレンタル契約は今年6月末までだったが、クラブ側の要請で年内一杯までの契約延長が決定した。当初はヨーロッパのクラブへの契約がまとまりかけていたレナチーニョだが、本人が日本でのプレーを強く希望し、一転して残留の運びとなった。
この裏にはサポーターの熱意があった。6月20日のリーグ大分戦の試合後、スタジアム前にサポーターが居残り、「俺たちにはレナチーニョが必要だ」というポルトガル語の弾幕を掲げてレナチーニョを送りだしたのだ。この熱いラブコールにレナチーニョの心は大きく動かされた。
「移籍に関しては自分一人では決められないものがあるんだ。でも、あのメッセージを見て、日本に残りたいと強く感じた。素晴らしいチームとサポーターに出会えて、なおかつ僕のことを必要としてくれる人がいる。海外のチームでプレーすることが決まりかけていたけど、あれから家族や代理人ともう一度話をして、日本でプレーしたいということを伝えた。僕は日本という国が好きだし、チームの仲間たちが大好きだ。だからベストを尽くしてチームの勝利に貢献して、フロンターレで優勝という結果を残したい」
「僕は子供が大好きなんだ」と屈託のない笑顔で話す。親戚の子供たちからかかってくる電話をいつも楽しみにしているそうだ。スタジアムや練習グラウンドにやってくる日本の子供たちの笑顔も、レナチーニョの力になっている。たとえ言葉はわからなくても、子供たちとじゃれ合う彼の表情は柔らかい。
サンビセンチの路上でボール遊びに夢中になっていた少年は、十数年たったいまでもボールを蹴り続けている。年齢や置かれている環境が変わっても、情熱だけはあの頃とまったく変わらない。たぶん、これからも変わらないだろう。
「子供の頃からやってきたフットサルでドリブルのテクニックは身につけることはできた。でも、サッカーだとそれだけでは通用しない場面も出てくる。フットサルとサッカーは似ているけど少し違う。フットサルではヘディングはほとんど使わないし、強いシュートを打つこともないからね。だからもっと練習しないと。
僕はサッカー選手としてまだ成長過程にあると思う。日本にはジュニーニョという素晴らしい先輩がいるし、いろんなことをどんどん吸収していきたい。ロビーニョもそうだったけど、23歳ぐらいで一定のレベルに到達して、そこからは自分のプレーに専念できるようにしたいと考えているんだ。地道に練習を続けていくことで、いまはわからなくても1年先に良くなったと思えるようになるかもしれない。その積み重ねが自分自身の将来へとつながっていくんじゃないかな」
profile
[レナチーニョ]
昨シーズン途中に加入したセカンドストライカータイプのFW。チームにフィットしはじめてからは高い決定力を武器にレギュラーに名を連ねた。緩急をつけた独特のテクニックは、世界の舞台でも通用するほどの無限の可能性を秘めている。173cm/65kg > 詳細プロフィール